日本の住宅 ある研究による  
     
    日本における住宅の変遷

@量的不足解消優先の戦後の住宅政策

明治以降の日本の住宅政策は、基本的に住宅の量的不足解消を解決するためのものであった。1884、5年ごろから急速に進んだ都市人口集中のため、都市生活者の住宅不足が拡大した。その後、関東大震災(1923年)により、46万戸もの住宅が損失、住宅難が深刻化した。
1929年からの昭和の大恐慌による家賃支払い困難世帯の急増、戦時統制による新規建築の禁止、そして、第二次世界大戦による、焼失住宅210万戸(全国)、これに海外からの引揚者、復員軍人を合わせると420万戸の住宅が不足するという最悪の状態から、日本の戦後は始まった。
1945年、政府は、「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」を緊急発動し、全国に、越冬用簡易住宅を建設することとなった。これが1951年に制定された公営住宅法による「公営住宅」の前身となった。しかし、住宅建設は、微々たる物で、とても住宅不足を補えるものではなかった。当時は、産業復興優先の金融政策が取られ、庶民の生活は後回しにされており、民間金融機関が住宅金融に対応していくことは不可能であった。この様な状況のもと、1950年、長期の住宅融資を目的として、「住宅金融公庫」が設立された。一方、地代、家賃の統制により、良質な賃貸住宅の建設は進まず、「統制令」は徐々に、廃止に近い物になっていった。
また、地主、家主を犠牲にする形の「借地法」は、良質な賃貸住宅の供給を阻害することになり、その後の日本における賃貸住宅の貧困さの一因となった。

A住生活の犠牲、設備投資の増加による高度成長経済の達成

昭和30 年代に入ってからも、住宅の不足は深刻な状態が続いていたが、依然、金融政策は、産業優先のままであった。1965(昭和40)年度末の金融機関における住宅ローン残高は450 億円で、総貸し出し残高の僅か0.2%にすぎなかった事でもわかるように、昭和30年代の民間の住宅金融は期待できるものではなかった。
一方、1955 年、公的資金の導入による住宅供給を図る方策として、「日本住宅公団」が設立された。公団の目的は、優良な賃貸住宅を大量に供給することにあった。そして、大都市近郊に宅地造成と耐火アパートによる団地開発を行った。昭和30 年代の住宅政策は、基本的に、持ち家層に対する「公庫」、貧困層に対する「公営住宅」、中間層に対する賃貸住宅である「住宅公団」の3 本柱で行われていった。
公団の登場により、洋風建築の考え方であるLDKタイプの家作りが行われ始め、住宅材料メーカーによる住宅生産の工業化の試みがスタートし、それがプレハブメーカーの登場に結びついていった。その頃、住宅の先進部分として、建築家による「モダン建築」の代表作が次々とつくられていった。

B団塊の世代が住宅需要を大きく増加させる

昭和40年代に入って団塊の世代の世帯が急増し、住宅需要を大きく増大させた。その背景には、民間金融機関の融資条件が大幅に改善され、また、資金調達額も増加したことにより、融資額は飛躍的に増大した。更に、政府の金融ポリシ−が産業基盤重視から生活関係重視に転換されたことによって、公的資金による住宅着工数の増加、住宅金融公庫融資戸数の大幅な増加が見られた。1972年には、戦後最高の住宅着工数(186万戸)を記録したが、住宅金融の緩和により、これらの中で「持ち家」比率を大幅に高めることとなった。1965年までは、「持ち家」は工務店への注文建築であったが、1965年以降は、不動産業者による分譲住宅の比率が増大するようになった。
「持ち家」が増加していった半面、公団、公営住宅などの公的資金による住宅は計画を大きく下回った。それにより、日本の住宅は、賃貸住宅ではなく、「持ち家」主導にシフトしていった。 1968年には全国計で、1973年には東京都を始めとして全国の都道府県で、初めて、住宅戸数が普通世帯数を超え、量的には住宅困窮の状態から、脱却することができた。
昭和40年代後半には、「日本列島改造論」による日本全土が総開発地区となるような状態で、地価は急騰し、更に、1973年の第一次オイルショックによる地価、建築費の高騰によって、国民の住宅取得能力は著しく低下し、1981年には、持ち家住宅着工数を大きく減少させた。
この時期には、プレハブ住宅は、広範な中間層をターゲットに市場を広げ、住宅産業は巨大化していった。この時代は、「分譲住宅の時代」といってもいいような、ディベロッパーによる分譲(持ち家)住宅が比率を高めていった時代であった。分譲住宅は分譲地開発によって行われ、大量の「分譲住宅」が供給されていった。その代表選手が1969年に開発された「千里ニュータウン」(大阪)であった。また、戦後空前の住宅ブームを背景に、日本初の住宅産業展である「東京国際グッドリビングショー」(1970年)が開催された。

C量から質の時代へ

減少した住宅着工数は1975年度から回復基調に向かい、その内、分譲住宅は昭和50年代までは、戸建て住宅が中心であったが、50年代後半からは、マンションが急増して行き、60年代以降は戸建てを上回っていった。そして、1977から1979年には第四次マンションブームを迎えることになる。この頃は、世帯の可処分所得の増加、住宅金融公庫などの長期低利融資の増大などにより、良質で広い住宅への欲求が強まり、住み替え世帯が急増していった。ハウスメーカーも商品の多様化、ファッション化を行ったり、高級ラインの品揃えの充実を図るようになっていった。更に、「セキスイハウスBK−V型」(1978年)に始まる「商品化住宅」(マーケティング手法による住宅開発)が登場し、多様化した生活者ニーズへの対応を行わざるを得なくなっていった。
第二次オイルショックにより、住宅の取得能力は減少し、1982年まで持ち家の着工数は減少した。しかし、1987年度からのバブル経済による建築費、地価の高騰により、住宅の取得能力は低下したにもかかわらず、資産価値の上昇が誘引し、持ち家の需要は増加した。
1993年度からは、バブル崩壊により地価の急落が起きたが、今度は逆に、資産価値の低下にもかかわらず、金融公庫金利低下や建築費の低下などの取得能力の増大により、持ち家着工数は増加しつづけた。持ち家の中でも、マンションの供給量は増えつづけ、1996年には、東京圏で年間8万5千戸台に達している。これは世帯のローン支払額が賃貸住宅の家賃を下回るようになってきた背景がある。
1980年以降、有名建築家による集合住宅建設(「六甲の集合住宅」安藤忠雄−1983年)大型再開発による高級マンション建設(「広尾ガーデンヒルズ」−1987年)、高層化の進展による高層マンションの建設(「リバーシティ21」−1993年)が行われた。

D公的住宅政策から市場メカニズムへ

バブル経済の崩壊後は、それまで行われていた、住宅による内需拡大政策がより強められていった。具体的には、住宅金融公庫融資枠の拡大、金利の引き下げ等により、持ち家取得の促進を図るものであった。この景気浮揚のための政策実施により、金融公庫の貸付残高は大幅に増加し、財投金利との差がなくなっていた公庫の金利への利子補給が問題となっていった。一方、公営住宅においても、低所得者の住宅事情の逼迫状態はなくなっており、建築における民間活用の導入、家賃支払い方式の変更などが必要な段階になっていった。
また、住宅・都市整備公団も1995年の「特殊法人の整理合理化について」の閣議方針により、分譲住宅供給の廃止し、都市計画領域の事業に限定することとなった。そして、2002年には、小泉内閣の構造改革路線の中で、日本の住宅政策の根幹であった住宅金融公庫の廃止の方向が決定された。この様に、戦後日本の住宅政策をリードした公営住宅、公団、公庫の3本柱は役割を終え、民間主導による市場メカニズムに住宅政策を委ねることとなった。
住宅着工数は1996年度には消費税アップ前の駆け込み需要で、大幅に増加したが(163万戸)、1997年以降は、金融不安、景気の低迷、世帯収入の減少不安、さらに、地価下落による資産価値の低下などの要因で、持ち家取得意欲は大幅に減少し、需要減の状態が続いている。
平成期に入ってから、プレハブメーカーの住宅供給が全住宅件数の20%を越え、住宅が「商品」であることが定着してきた。商品としての住宅は、1980年代のようにデザインの多様化を求めるのではなく、「高規格化」「高気密化」「高断熱化」など住宅としての性能が求められるようになってきた。また、都心回帰の流れに対応したタワーマンションが増加し、地域に密着した住宅のあり方が検討されたり、高齢化に対応したユニバーサルデザイ
ン住宅の開発、高齢化社会へ対応し住宅の流動化を促進するための「リバース・モーゲージ」など新たな政策展開など、新しい時代に対応した動きがでてきた。更に、住宅建設のあり方や住宅のあり方についても、「コーポラティブハウス」「マルチハビテーション」「インテリジェントハウス」「SOHOハウス」や「環境共生住宅」等の新しい概念が登場してきた。